表現の不自由展・その後中止事件の経緯

2019
1.172018.6に津田大介芸術監督より永田浩三を経由し岡本有佳に連絡が入る。その後、アライ=ヒロユキ、岩崎貞明、小倉利丸、永田浩三が加わりチームとなる。6人で展覧会の内容、構成を協議していく
5.8愛知芸術文化センターへ下見&打合せ。あいちトリエンナーレ実行委員会(以下、あいトリ実委)大村秀章会長(知事)名義であいトリ出品作家として「参加同意書」に署名・捺印する
5.30表現の不自由展実行委員会(以下、不自由展実委)とあいトリ事務局で警備会議を開く
7.29不自由展実委、あいトリ実委と契約書を交わす
7.31あいちトリエンナーレ2019内覧会。夜のパーティに文化庁来賓欠席
8.1あいトリ開催。初日より苦情が来始める。津田芸術監督、県職、不自由展実委と深夜まで会議
8.2菅義偉官房長官、あいトリへの補助金不交付に言及。河村たかし名古屋市長、不自由展の展示会場を視察し、不快を表明。津田芸術監督記者会見。津田芸術監督、県職、不自由展実委と深夜まで会議
8.3大村あいトリ実委会長、津田芸術監督別々に「展示中止」記者会見。不自由展実委は記者会見で抗議声明「『表現の不自由展・その後』の一方的中止に抗議する」を発表。夜、会場入口は壁でふさがれる
8.6不自由展実委は「『表現の不自由展・その後』中止に関する公開質問状」をあいトリ実委に提出。その後記者会見を開く
8.9「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」(以下、検証委)設置。大村知事は13日にTwitterでこれを明らかにし、16日に第1回会合開かれる
8.12不自由展実委は「展示再開のための協議の申し入れ」をあいトリ実委に提出。海外作家と日本作家、キュレーターで対話の会議が開催されるも不自由展実委のみ呼ばれず。抗議しオブザーバーとして参加。海外作家を主体としたあいトリ参加作家による抗議声明「表現の自由を守る」発表、多くの作家が展示ボイコットを行う
8.15不自由展実委「表現の自由回復のために表現の不自由展実行委員会が望むこと」をあいトリ実委に提出
8.16キム・ソギョン/キム・ウンソン、安世鴻(不自由展参加作家)、大村知事、津田芸術監督へ面談申し入
8.20不自由展実委会は「検証委員会に関する公開質問状」をあいトリ実行委に提出
8.21不自由展実委は「展示再開に向けた協議開催にあたって」あいトリ実行委に提出
8.26不自由展実委は「検証委員会ヒアリングに対する表現の不自由展実行委員会の考え」あいトリ実行委に提出
8.27不自由展実委は「展示再開に向けた協議を求める緊急申し入れ」あいトリ実行委に提出
8.28不自由展実委は「展示再開に向けた協議開催日の確認のお願い」あいトリ実行委に提出
8.31不自由展実委は「検証委員会ヒアリングを受けるにあたって」をあいトリ実行委と検証委・山梨俊夫座長に提出
9.2外国人特派員協会で「表現の不自由展中止問題」、不自由展実委と津田芸術監督が別々に会見。検証委ヒヤリングを受ける(アライ、岡本)。不自由展実委は「検証委員会ヒアリングに対する疑義と質問(上山信一副座長のツイッター問題)」をあいトリ実委・大村会長と検証委・山梨座長に提出
9.10不自由展実委は「検証委員会ヒアリングに対する改めての疑義に対する回答要請」あいトリ実行委に提出、回答なし
9.13不自由展実委は名古屋地方裁判所に展示再開を求める仮処分の申し立てを行う。その後記者会見。不自由展実委は「あいちトリエンナーレあり方検証委員会のアンケートに対する抗議、撤回要求」をあいトリ実委・大村会長と検証委・山梨座長に提出
9.20仮処分をめぐる審尋の第1回目
9.21不自由展実委は「第2回あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」報告資料中の事実関係説明に重大な問題を指摘し、幾つかの重要事項の追加修正を検証委に要請。「“『表現の不自由展・その後』について考える”をテーマとした国内フォーラム」開催されるも不自由展実委は呼ばれず。プレスとして出席。閉会後、山梨検証委座長より非公式会議を持ちかけられ、不自由展実委をはずしたかたちでの再開を打診される
9.25大村知事、記者会見で再開を発表
9.26文化庁、あいトリへの補助金不交付を決定。不自由展実委記者会見
9.27仮処分をめぐる審尋の第2回目
9.30仮処分をめぐる審尋の第3回目。あいトリ実委と不自由展実委は裁判官の勧告を受け、再開の和解に合意。不自由展実委記者会見
10.410.4 検証委より新たに再開条件として撮影の全面禁止を通告。不自由展実委はこれに抗議
10.5-610月5・6日 国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」。両日にわたり、フォーラムの裏で非公式協議が盛んに持たれる。6日夜、山梨座長より大村知事からの再開の意志が伝えられる。不自由展実委は「展示再開にあたり」をあいトリ実行委・大村会長に提出
10.8「表現の不自由展・その後」再開。試験的に撮影全面禁止
10.9会場は限定条件付きで撮影解禁。不自由展実委は報道関係者の撮影禁止に抗議し、会期中毎日、展示時
間終了後に記者懇談会開く。キム・ソギョン/キム・ウンソントークイベント開催
10.11不自由展実委は「報道関係者の撮影取材許可」「津田芸術監督のニコ生の夜中継への異議」をあいトリ
実委に要請
10.12台風のため、あいトリが展示休止に
10.13キム・ソギョン/キム・ウンソン、「限定再開」への抗議を発表(展示会場の壁に掲示するもあいトリ
側の要請で剥がす)。最終日の不自由展実委記者会見場をあいトリ側が拒否。会場とりに苦労する
10.14トークイベント「世界の検閲・日本の検閲」開催。
あいトリ終了。終了後初めてプレスに撮影が解禁。
不自由展実委はあいトリが大きな課題を残したことを会見で声明「あいちトリエンナーレ2019終了にあたって 表現の自由回復のために その4」発表
11.2不自由展実委は「脅迫犯の謝罪文に関する要求」をあいトリ実行委・大村会長に提出

不自由展実行委員会の動きを中心にまとめた。

あいちトリエンナーレ2019
「表現の不自由展・その後」のあらまし

表現の不自由展のルーツ

「表現の不自由展・その後」とは何だったのか。その概略を述べる前に、その前史に触れる必要があるだろう。
 「表現の不自由展」は、公共空間や公共施設で検閲や規制を受けた芸術作品を集めて紹介、展示する展覧会の名前であると同時にプロジェクト名でもある。検閲状況をリサーチし、この問題への理解を深めるイベントなどの啓蒙活動、実態を知らしめる年表作成の資料作成なども活動の一環だ。
 このプロジェクトは、2010年代初めから日本社会で急増し始めた検閲事件に対して危機感を抱いた人々によって始められた。2012年に中国に置き去りにされた日本軍「慰安婦」被害者を題材にした、写真家・安世鴻による写真展がニコンサロンで展示中止になる事件があった。事件を不当なものとし、ニコンサロンを運営するニコンに対して安世鴻が起こした裁判を支援するメンバーを中心に実行委員会を結成。2015年に最初の展覧会を開催した。いまもその問題意識を継承した性格を持っている。
 具体的には、日本の検閲事件のなかでも行政によって引き起こされることの多い、戦争と植民地支配の歴史についての隠蔽を追及し、排外主義や差別により奪われた表現の場の確保が大きな柱ともなっている。これは先にも述べたように、検閲事件の増加は日本社会の右傾化がもたらした負の歴史のタブー化がその中心にあると理解できるからだ。
 活動は表現の不自由展実行委員会とこれを支えるメンバーによって企画、実施する。表現の不自由展の出品作家の選定、展示の企画構成なども実行委員会自らが主体となって行う。実行委員の改編も幾度かあった。その実行委員は、ジャーナリスト、研究家、編集者、美術評論家、表現者など、さまざまな人々で構成される。

 

開幕までの曲折

 さて、あいちトリエンナーレ2019への参加は津田大介芸術監督の発案で招請されたものだ。新作出品の作家扱いの契約をあいちトリエンナーレ実行委員会と交わしたが、実質的にキュレーターとしての参加だ。このときの作家選定のみ、津田芸術監督を加えての合議制で行っている。
 あいちトリエンナーレ実行委員会より最初に出された契約書案は表現の不自由展実行委員会の決定権が著しく低いものだった。これを改善するべく、多くの人に相談をした。たとえば、弁護士には契約上の不利益とそれを回避する手立てを、国際展のディレクター経験者には契約の実情を聞き、契約書の訂正案を練ることに多大の時間を費やした。そうした努力で、表現の不自由展実行委員会の権利条件の多少の改善が見られ、開会の3日前にようやく契約締結した。こうした交渉はまことに心身を消耗するものだった。
 あいちトリエンナーレ実行委員会は、出品作家との直接契約を拒否している。その意思表明が明らかになったのはある程度作業が進行してからであり、やむをえず表現の不自由展実行委員会が各作家に出品を委託。出品料も、あいちトリエンナーレ実行委員会から供与された経費の中から払った。
 キム・ソギョン/キム・ウンソンの《平和の少女像》(等身大作品)出品については、大村秀章・あいちトリエンナーレ実行委員会会長(愛知県知事)は最初から難色を示した。津田大介芸術監督も彼に賛同したものの、何度もやり取りを行うなかで、その間には展示企画そのものの頓挫の危機もあった。こうした過程を経て、出品の合意が両者(三者)で固まり、本決まりとなった。
 展示中止前の展示空間には「不自由」の縛りがあった。それは写真撮影に関する規定だ。あいちトリエンナーレ2019のなかで、不自由展の展示作品だけSNSでの写真投稿禁止というルールが設定された。これは津田芸術監督の発案によるもので、少女像の展示に軽い懸念を示す大村秀章・知事に対し、展示を了承してもらうための世論を刺激しない処方案だった。表現の不自由展実行委員会は当初はこれに反対であったが、開幕が迫るなか、津田芸術監督の責任として作家の了承を得るという条件でやむなく了承した。しかし監督が説得できなかった作家がこれに同意せず、「SNS投稿推奨」マークを貼りだした。それに連帯する作家も出た。これは結果的にSNS上での画像拡散をもたらしたかもしれない。

 

開幕からの3日間

 展覧会オープン後、あいちトリエンナーレ2019は多くの苦情にさらされた。8月1日初日に、本展の撤去を求めるなどの批判が電話でおよそ200件、電子メールが500件押し寄せた。展示中止となった3日まで延べにして、電話600件、電子メール2230件、FAXが56件が寄せられた。こうした事態にあいちトリエンナーレ実行委員会は展覧の継続が安全上困難な障害と判断。3日目に展示を中止した。
 この中止にいたる過程をもう少し詳しく説明しよう。初日からの苦情攻勢に電話応対の現場は一貫して緊迫した空気に包まれていた。2日の深夜会議の段階で津田芸術監督は表現の不自由展実行委員会に展示中止の「決定」を伝えたが、こちらは強い慰留を試みた。このときの説得の論旨としては、まずは休館日に至る4日間まで開催を踏み止まり、その休日に体制の建て直しを図るべきとの主張だ。
 津田芸術監督はこちらの主張を一端は受け入れて翻意撤回し、彼は事態をいましばし静観するとともに改めて大村会長との協議を約束した。だが、その翌日に事態は急変し、中止に至った。この3日の最終決断において表現の不自由展実行委員会との協議、関与は許されなかった。
 大村会長と津田芸術監督は一方的な決断を行い、その表明はまず記者会見の場で行われ、表現の不自由展実行委員会もそのさいに知った。実行委員は記者会見場に入ることはできなかったから、漏れ聞くか、報道メディアを通してのみ知る立場にされた。そして、3日目の深夜には既に入口は巨大な壁で封鎖されてしまったのである。このあたりの処置には、周到さの印象も否めない。
 契約書には、災害以外のあらゆる中止はあいちトリエンナーレ実行委員会と表現の不自由展実行委員会の双方の合意で決定されると規定されていた。しかし中止決定は、表現の不自由展実行委員会に対し最終報告も同意もない形で強行された。また、出品作家にも展示中止の事前通告はなかった。そのため、これは契約書に違反する行為であり、検閲と呼べるものだった。
 契約違反は法的な問題だが、現場の安全は現実の運用の範疇に属する。この現場の安全をどう守るか。このセキュリティの問題は、表現の不自由展実行委員会が当初から万全の対処を訴えていた事実がある。私たちはかなり早期から入念な提案を行った。具体的には最初に汎用性の高い簡易な対策マニュアルの雛形を準備案として提示。その後現場担当者と詰めながら、実情に即した詳細なマニュアルの作成、対応スタッフの研修の実施といった流れをこちらは準備していた。だが、実際はあいちトリエンナーレ実行委員会のほうは非協力ないし消極的で、開催までにこちらが想定してた準備態勢の提案と構築まで至らなかった。
 たとえば、電話応対のオペレーターに対し事前のトレーニングが行われていなかったことも開催後に発覚した。この準備不足は、愛知県の労働事情の劣悪さを現場担当者は当時理由にあげていたが、実際はその真相について色々な憶測が可能だろう。
 2015年の表現の不自由展は、ヘイトスピーチ反対などの市民活動での最高レベルの実践経験者の協力のもと安全を確保したまま無事にやりとげた。専門家の右翼の動向の把握などはかなり克明であり、あいトリでも有益だったろう。惜しまれる点だ。
 マスメディアは抗議や放火予告、強制中止などを煽情的とも思える姿勢で報道した。だが、展示空間という現場はそうしたイメージとの落差があったのも事実である。
 8月1日から3日間の展示会場は穏やかで平和な雰囲気に満ちていた。確かに右翼の街宣車は押し寄せたが、1台程度。右翼と推定される人々も来場したが、写真や動画撮影に忙しく、「暴れる」ことは基本的になかった。ごくたまに作品をめぐって声を荒げる人もいたが、周囲の人がなだめ、落ち着かせるといった情景も見られた。ここには作品の平和的な鑑賞を可能にする一種の平衡状態が生まれていた。
 作品への議論はともかく、まず来場者には鑑賞してもらうことをもっとも大切にしたい。これが表現の不自由展実行委員会が特に留意した点である。
 「日本の検閲」状況に注意を喚起することのみが展示コンセプトなら、状況を象徴的に読み解く美術作品で構成することもできる。しかし本展では検閲された当事者の作品を集め、作品をして語らしめるかたちを取った。博物館的な「検閲作品」の展示にしたくなかった。主張する権利、見られる権利を奪われた作品の復権の場にしたかった。作品の「美術展示」である。
 作品の説明文も検閲に関わるものは、多少のバラツキはあるが、平均して1/3以内に収めるようにした。検閲に関わる情報は資料コーナーに作家資料として設置した。作品だけをさっと見て帰るのもいいし、より関心を持った方には時間の許す限り新聞記事などの資料と向き合ってほしかった。
 検閲された作品はどうしても社会の中で色眼鏡を持って見られがちだ。そのあたりの先入観を払拭すること。作品を見た方が、「なぜこの作品が検閲に?」と疑問を持ってもらえれば展示の狙いは成功したと言えるだろう。

 

展示強制中止がもたらした波紋

 さて、展示の強制中止の翌日、8月4日には表現の不自由展実行委員会は、展示中止を「検閲」とする抗議声明を発表した。「戦後最大の検閲事件」。これがこちらの形容であり、これは「朝日新聞」の記事でも使われた。事件をめぐる反響や波紋はさまざまな領域、論点で数多くの興味深いものを生み出している。ここで注目したいのは、あいトリ参加作家の反応の違いだ。具体的には、日本作家の曖昧かつ微温的な反応に比べて、海外作家の抗議声明や展示ボイコットなどの強硬姿勢が目立ったことだ。
 当初海外作家は11組、およびCIR(調査報道センター)が今回の措置に対しボイコットを表明した。ほか本展のキュレーターではメキシコで活動するペドロ・レイエスも賛同し署名した。
 「従って、私たちは検閲されたアーティストたちとの連帯を公に示すための身ぶりとして、『表現の不自由展・その後』が観客に閉ざされている限り、トリエンナーレに展示している自らの作品展示を一時的に停止するよう、運営側に要求します。この行為を通じて、あいちトリエンナーレ実行委員会が、政治的介入や暴力に屈して『表現の自由』を妨げることなく、『表現の不自由展・その後』を再開し、素晴らしい仕事を続けてくれることを心より願います。表現の自由は重要なのです」
 2019年8月12日に発表された「表現の自由を守る」にはこう記されている。抵抗運動は日本作家の2名を含むまでになり、展示室閉鎖や照明を落とすなどのボイコット、抗議メッセージを作品に添付するなど抗議行動を行う作家は最終的に15組にも昇っている(9月30日時点)。これに対し先の2名を除く日本作家は比べると幾つかの再開へ向けての活動を展開しているが、抗議のような非難を含む強いニュアンスを極力消し、曖昧な活動に終始している。
 先の作家声明で注意したいのは、「検閲」という言葉が使われていることだ。(多くの)海外作家と表現の不自由展実行委員会の状況認識は一致しており、日本作家の多くとは溝があった(少数だが違うものもいた)。
 この検閲の認識のズレには日本の固有事情がある。もっとも権威を持つとされるOED(オックスフォード英語辞典)の定義にはこうある。「性的、政治的とみなされ受け入れられない、あるいはセキュリティ上の危機とみなされ、本や映画、ニュースなどに行われる抑圧や禁止」。これに対し、1984年に確定した税関検査事件の判例では、検閲は範囲を行政権の主体のものに絞り、事前規制のみを対象としている。これは乱用を避けるためという一面はあろう。しかし、日本の検閲の理解を狭めるのに寄与している。
 検閲は政治と社会の開明の度合いが低いところで多く生じるが、それだけでなく自覚や意識にも比例する。日本に潜在的な検閲が多いことを示したのがまさに「表現の不自由展・その後」だ。これは人類社会では人権というものが日々自覚し、主張しなければ意味がないことと同じである。

 

仮処分申請の論点

 表現の不自由展実行委員会は展示の強制中止以降、大村会長に再開のための協議を求め続けた。しかしこれは実質的に拒否され続け、最後の手段として展示中止の強制を不当なものとしてあいちトリエンナーレ実行委員会を相手取り、名古屋地方裁判所に展示再開の現状回復を求める仮処分申請を行った。
 これは迅速に裁判所の決定で命令を出せるもので、賠償請求なども行える本裁判と異なり、限定的な機能しか持たない。こちらの要求は、壁の撤去と展示空間をそのままのかたちでの再開(原状回復)である。
 仮処分申し立てで争点となったのは、中止が不当であるか否かである。これはふたつの観点から考察された。ひとつは契約書に記載された中止要件に該当するか、さらに表現者としての主体的な権利を有するか、である。
 ここで表現の不自由展実行委員会が契約条件でなるべく対等になるよう粘った努力が活きてくる。まず、中止要件について。あいちトリエンナーレ実行委員会から当初提示された契約書案はこうだった。「甲は、災害が発生した場合又は乙が第三者権利侵害等の違法行為を犯した場合等、出品作品の展示が不適当となったと判断したときには、出品作品の展示を中止することができる」とあった。この「場合等」がくせ者で、あらかじめ拡大解釈ができるように盛り込まれていた。
 先にも述べたように、「表現の不自由展・その後」では、出品作家があいちトリエンナーレ実行委員会と直接契約せず、表現の不自由展実行委員会と契約。実質キュレーターの作業を行う参加作家扱いとして、あいちトリエンナーレ実行委員会と契約する二重構造になっていることだ。あいちトリエンナーレ実行委員会の説明では、本展のキュレーターと業務内容が異なるのでそうした契約は難しいとの話だった。
 だが、実際は《平和の少女像》の作家やさまざな検閲事件のいわくつきの作家と直接契約することでのリスクを負いたくないことが本音だったのではないか。そのリスク管理の延長線上に一方的な中止もあったのだ。
 先の中止要項では「場合等」を削除することができた。仮処分の場においては拡大解釈が認められなかったから、このねばりが後の述べる「限定再開」につながった。
 次に表現者としての主体的な権利を有するかについて。あいちトリエンナーレ実行委員会は表現の不自由展実行委員会をよくてデザイナーあるいは展示設置業者の立場に貶めることで主体的権利を踏みにじる正当性を得たかったのだろう。これに関しては、まず作家として招聘するという先方からの文書などの幾つかの物的証拠があり、いかにも言い逃れのふうだ。

 

検証委員会がもたらしたもの

 ここで8月3日以降、新たに出現した組織、あいちトリエンナーレのあり方検証委員会について触れよう。これは展示中止をめぐる一連の事件をマネジメントの失敗と位置づけ、その検証を行うため、大村会長により設置されたものだ。しかし検証委員のなかに膨大な嫌がらせ攻撃に対処する必要を持つセキュリティの専門家はいなかった。
 ここに組織設置への疑念も生じる。セキュリティの専門家の不在にはふたつ理由が推測される。もともとセキュリティは解決可能であり重要問題ではなかったこと、あるいは再開を前提としない(あるいは表現の不自由展実行委員会を排除したかたちでの展示空間の再構築のための)検証作業で主に検閲を正当化する性格を持つこと。後に独自に県側でセキュリティ体制の構築を進めていたことが分かり、この両者であったことがわかる。
 この検証委員会の論点は先に述べたキュレーションの練度の低さであり、キュレーターチームの介在しない美術の専門家によらない展示空間の構築が混乱を招いたとした。実際は美術館学芸員が補助に就き、多少の作家選定における提言など意思決定への関与していたからこれにあたらない。さらに美術史をひもとけば、美術評論家は潜在的にキュレーターとしてみなされる慣習がある。その好例は、中原佑介の第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ、1970年)、針生一郎の光州ビエンナーレ・特別展示「芸術と人権」(2000年)があたる。筆者も美術評論家であるから、この批判は当たらない。
 もうひとつ重視したいのは、検証委員会がアンケートを実施したことだ。これは出品作家向け(「表現の不自由展・その後」を含むあいちトリエンナーレ2019全体)、一般市民のほうはウェブサイトからの応募形式になっている。基本的に内容はほぼ同じだ。
 展示に関しては、企画の趣旨、展示方法、作品の選定、3日間での中止事態、今後の展示のあり方、などを評価するかたちになっている。これは3つの問題点をはらんでいる。会期中の「表現の不自由展・その後」への評価集計は、そのまま展示への圧力に直結する。美術展示は必ずしも大衆性を持つとは限らず、定量調査による評価は多様性を損ねること。出品作家の意識収集は思想調査に等しいこと。特にこのアンケートはキュレーター(学芸員)から作家に送られるため、その回答は作家の立場、待遇に直結しかねない問題だ。
 さらに看過できない設問がある。「あなたは、公立美術館が、思想や知識も含めて、自由に展示することについて、どのようにお考えですか」がそれだ。表現の自由は民主主義社会の根幹をなすもので、自明とすべき原理。しかるに、これはこの原理を損ねるような見解を誘導するものだ。これはまさに不見識だ。
 実際検証委員には、上山信一、曽我部真裕の保守陣営が名を連ね、ヒアリング有識者対象者には三浦瑠麗も起用されている。検証の中間報告では「表現の不自由展・その後」が扱う、強制連行と性奴隷(日本軍「慰安婦」)に対し、史実の面から否定的な説明を行っているが、これは日本政府が公式見解としてきた1993年の河野談話とは違反するものであり、歴史修正主義の色彩の極めて濃い組織であることが分かる。
 本来、会期中の展覧会の検査機関の設置は検閲に当たる行為だ。こうした検閲機関をわざわざ設置した理由は、事件の火消しであると同時に表現の不自由展実行委員会つぶしの意図もあるだろう。ただし、仮処分申請の審理に影響を与えるものではなかった。

 

どのように和解がなされたか

 仮処分の審尋では裁判所の命令という勝利を不自由展実行委員会は勝ち取ることはできなかった。それは大村会長が9月25日の記者会見で再開を表明したからである。展示再開のための仮処分申し立てであったので、これはいわば封じわざと言えるだろう。裁判官からは和解が打診され、こちらも9月30日の審尋でそれを呑むこととなった。
 和解内容の主なものは以下の通り。再開は6~8日を前提。安全維持のため入場は事前に予約の整理券方式。再開のさいは「開会時のキュレーションと一貫性を保持すること」、ただし観客のためのエデュケーションプログラムを別途実施。ほかに検証委員会の中間報告の観客の提示も求められ、こちらは異議は留保するが、伝達自体には反対しないとした。キュレーションの一貫性とは、単純に同じ作品を設置すればいいというものではなく、展示意図への尊重、具体的には対話を生む展示空間、を説明するものである。これは表現の不自由展実行委員会の実質的なあるいは限定的な勝利と呼べるものと総括していいだろう。
 仮処分申請による裁判所での闘争は権利闘争であったが、これは「美であるか否か」の審判を権力とその荷担者、表現の不自由展実行委員会が争う美学上の闘争でもあった。あの展示空間が「キュレーション」として認められ得るかはその大きな論点だった。こちらの主張は、「作品と観客、観客と観客、作家と観客の情報伝達と交流の場の実現」(岡本有佳)を展示の到達点と見立て、その企画と制作をキュレーションと定義するものだ。
 アライは現代美術史、内外で展示された現代美術の事例を詳細にあげ、いかに美学上からみて「表現の不自由展・その後」が「キュレーション」足りうるかを論じた。その細かい検証過程は専門的になるので割愛するが、「活動と言論は、それに参加する人びとの間に空間を作る」というハンナ・アーレントの言葉を借り、展示空間が言論と活動の「共生の場」であったと論じたことには触れておきたい。
 「キュレーションの一貫性」について、もう少し踏み込んで説明しよう。この「一貫性」は元々は「同一性」(identity)という言葉で、「裏交渉」のさい、こちらが提示したものだ。あいちトリエンナーレ実行委員会らが求めた「展示空間の改変」の企図に対し反駁するために用いた美的根拠のことである。言うなれば、「表現の不自由展らしさ」を最小限担保するための形容だ。ここで最小限と書いたのは、これは最終段階の局面で切ったカードで、「多少の改変」は許容するという意味を含んでいるためだ。やや美学、哲学的な定義の問題に足を踏み入れているが、一般的な民事訴訟でなく、美術展の係争であるから、こうした形容のいわんとするところを十全に組んでくれると判断し、用いた。

 

再開の舞台裏

 さて、裁判官の和解勧告を双方が受諾し、表現の不自由展実行委員会とキュレーターチームおよび学芸スタッフとの間に再開のための実質協議が持たれた。しかし、ここでさらに横やりが入ることになる。
 10月4日に検証委員会より撮影の全面禁止受諾を打診してきた。これは現場でも寝耳に水だったようだ。和解条件の柱であるキュレーションの一貫性を大きく逸脱するこの条件通告は法廷での誓約を覆すものであり、公的機関の振る舞いとも思えない暴挙である。表現の不自由展実行委員会は抗議を行ったが、先方は聞く耳を持たないようだった。
 一方、表現の不自由展実行委員会とは別に、あいトリ実行委員会のやり方に批判的な日本作家も裏で動いていた。かれらはボイコット作家と密な関係性を持ち、機能不全となったあいちトリエンナーレの解決を模索していたのである。しかしそれも限界に来ており、10月5日を最終デッドラインとし、この日に展示再開が最終決定しないのなら展示ボイコットからさらに進み、作品撤去する意志確認が交わされていた。かれらはこちらの公式的な通達やメッセージとは別に本音の妥協点の設定に尽力してくれた。すでに交渉は法廷の場を離れており、かれらの貢献もまた事態の解決に大きく資するところがあった。
 あいトリは10月5、6日に国際フォーラムを開催した。5日には私もディスカッションの登壇者であったが、その舞台裏では再開をめぐる熾烈な議論が作家の力強い援護射撃も交え、繰り広げられた。会場で聴講していた不自由展出品作家も急遽集められ、条件交渉とその検討がなされた。しかし大村会長は強硬で折れなかった。
 交渉は翌日にも持ち越され、幾人かの作家と実行委員、仮処分の担当弁護士も加わり、写真撮影禁止は撤回を勝ち取った。会期中のSNS投稿禁止、大浦信行の《遠近を抱えてPartII》のみ動画禁止となり、無事再開の運びとなった。しかし入場制限はやや厳しく、またプレス撮影は会期中は最後まで許されなかった。私たち表現の不自由展実行委員会はこれを「限定再開」と位置づけており、釈然としない限定勝利ではあろうか。
 エデュケーションプログラムは限定再開のための譲歩として受け入れた面があるが、そこに問題があったのも事実だ。これはありていにいえば、「観客の過剰反応を抑制するためのリスク管理」の側面があっただろう。表現の自由の問題を、価値判断抜きに、賛成意見、反対意見を同列に並べて多様性の確保の証とする姿勢にはいびつさがある。検証委員会の姿勢にも見られるが、摩擦が起きないようリスクを減らす手段を模索するのでは問題の根本解決にはならない。
 ことにあいちトリエンナーレ2019の展示中止事件は、歴史修正主義と社会の右傾化という歴史的な原因を持つ政治的問題に対し結果的に告発するところから起きた。先のような社会学的な視点では、事態の原因を究明する歴史的な視点による掘り下げはできない。本件に即し表現の自由をうたうなら、この政治の矛盾を直視するかたちであるべきだ。より具体的には、戦争と植民地支配の啓蒙的学習を欠いたエデュケーショナルプログラムでは、作品の真意と事件の真実の理解に至らない。社会教育としても、鑑賞の補助としても、明らかな欠陥がある。
 これまで「表現の不自由展・その後」はめぐるやり取りを概括してきた。これは「検閲」というかたちで表現を規制し抑圧しようとする公的機関であるあいちトリエンナーレ実行委員会およびあいちトリエンナーレのあり方検証委員会、対するに表現の不自由展実行委員会と出品作家たちの自由をめぐる闘いであったことが分かる。あいトリ最終日に大村会長は胴上げされたそうだが、これは検閲の本質を知らないナイーブ、あるいは権力におもねるもののやりようだろう。
 最後にマスコミなどの報道や言論展開に終始バイアスがあったことを指摘したい。初期の報道は《平和の少女像》に集中するものの、実際は苦情の5割に過ぎず、残り4割は大浦信行の昭和天皇がモチーフの《遠近を抱えて》、さらに1割が「そのほか」になる。メディアの報道に実態との差異が見られるのは、天皇タブーから敬遠のためにほかならない。
 マスコミはその都度自らの報道しやすいものを選び、軌道修正は行うものの、タブーから極力距離を置こうとする。展示の企画実施者である表現の不自由展実行委員会の主張をときには取材インタビューを没にしてさえ、省いた報道番組はその現れだ。
 先にも述べたように、あいちトリエンナーレ実行委員会はマスコミの写真撮影を許可しなかった。自身に課せられた不自由を脇に置いて、「自由の回復」を報道したマスコミの報道姿勢を評価することはできない。いまだ「不自由」は日本社会のなかに強固に根を下ろしている。
 あいちトリエンナーレ2019が終了後も、表現の不自由展はなおも続いている。2019年11月に近代朝鮮のプロレタリア彫刻家の名を冠した金復鎮賞を受賞、12月には韓国済州島での「EAPAP2019:島の歌」へ参加、今年4月は台湾・台北市のMOCA Taipei(台北市現代美術館)で「表現の不自由展 A Long Trail for Liberation(解放への長い道程)」を開催。来年には幾つかの地域で表現の不自由展の開催)が予定されている。

(アライ=ヒロユキ)


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